「おまえらデキてんのかと思ってたよ、中学の頃」

豪快に生中をあおった後で岳人が言った。
俺が揚げだし豆腐につけようとしていた箸を思わず止めたのには幸い全く気付いていない様子で、岳人は続けた。

「いっつも二人でいるしよ。なんかさ、二人だけの世界〜みたいな。面と向かっては聞けなかったけど」
「……んなわけねぇだろ」

ジョッキをテーブルに叩きつけるようにして置きながら岳人が「当時はぜってーそうだと思ってたんだけどなぁ」と言う。
「でも、高校上がったらぜんぜん一緒にいねーからさ。あれ?と思って」

焼き鳥に七味をかけながら岳人が言う。
「もうずっと会ってねーの?」
「あいつが留学しちまったからな。最初のうちはたまにメール来てたけど」
「だってもう戻って来てんだろ?一年くらい前だっけ?」
「そうらしいな。よく知らねえけど」

岳人は大袈裟に首を振ってうなだれた。

「寂しいよなー。あんなに仲良かったのにな、おまえら」
「……仲良かったっていうか、相方だったからだろ」
「まあな。でも、あの頃のお前らは、それ以上の関係に見えたよ。デキてるとかじゃなかったとしてもさ」

事もなげに岳人は言った。俺は、自分で言った「相方」というその言葉に強い違和感を覚えていた。

「その点、俺らの絆は強いよな!大学四年にもなってこーやってしょっちゅう遊んでんだからさ」
「お前は理由つけて呑みてーだけだろ」

ハハハ、バレてるー。と言って岳人が笑った。




俺と長太郎が「相方」だった頃。遠い昔のことみたいで、そのくせ鮮明に思い出せる。モノクロの記憶の中でその部分だけはっきりと色がついているような。
正直、あの頃「デキていた」のかどうかと聞かれたら返答に困る。
長太郎は俺のことが好きだった。俺も長太郎を好きだった。何回かキスしたこともあった。お互いの体を触りあったこともある。それをデキていると言うのならそうだったんだろう。狭い世界の中でお互いに気分が盛り上がっているだけだと今なら冷静に判断できたとしても。

俺が中等部の部活を引退してからも、高等部と中等部とで離れていた一年間も、ちょくちょく会っていたし連絡も取り合っていた。長太郎は相変わらず可愛げのある健気さで俺のいない寂しさを訴えたし、俺もそれを照れくさく感じながらも当然のように受け止めていた。
高等部に上がってから俺はずっとシングルスでレギュラーを獲れずにいた。それはもちろん歯がゆかったが、努力することの心地よさを感じてもいた。明確な目標に向かって努力するのは好きだったし、性に合っていた。
その話になると長太郎は必ず「宍戸さんなら絶対レギュラー獲れますよ!」と力を込めて言い、「俺が保証します」と分かっているふうに頷いた。俺は「お前の保証じゃあてになんねーな」と返した。

一年後、長太郎が高等部に上がってくると、ここで思いがけない事態が起きた。長太郎がすぐに同学年の別の奴とのダブルスでレギュラーに選ばれたのだった。
そんな当然起こり得るようなことを思いがけない事態として受け止めてしまったのは、「俺と長太郎のダブルスが最強なんだ」という子供じみた思い込みのせいだったんだろうが、いずれにせよ、それは俺にとってけっこう決定的な出来事だった。
なんで相方が俺じゃないんだとか、なんで長太郎だけがレギュラーにとか、そんなわがままや劣等感が全くなかったと言ったらウソになる。でも、そんなことよりも、「もうあの頃とは違う」ということを感覚的に思い知らされたような気がした。長太郎はどうだったか知らないが。

「絶対宍戸さんとまたダブルス組みたいって、この一年、そればっかり思ってたんですけど」
長太郎のレギュラー入りが発表された日の帰り道、長太郎が言った。
「うまくいきませんね」と言って困ったように笑う長太郎に、俺は何と答えたのか覚えていない。

それからも結局、俺はたまに大会に出してもらったりしながらもレギュラーとして定着はできずにいた。
俺が三年で最後の夏の大会、炎天下で汗を光らせながらサーブを繰り出す長太郎を応援席から眺めていたとき、俺はどこかへ逃げ出したいと思った。生まれて初めての暗い感情だった。


そしてその秋に長太郎は留学した。短期のそれなんかじゃなく、確かドイツの何とかいう有名な学校でみっちりテニスと語学とを学ぶためらしかった。
部室でそれを聞かされたとき、俺は「そうか。頑張れよ」と言った。もちろん驚いたが、口から出てきたのはそういう当たり前の言葉だった。
長太郎は「ありがとうございます。頑張ります」と言って笑った。俺たちの言葉はそれ以上でもそれ以下でもなかった。

それからたまに来ていたメールがいつの日か来なくなったのは、長太郎が向こうでの生活に忙しくなったからなのか、俺が返事を返さなかったからなのか。
なんで俺は返事を返さなかったのか。もし俺がシングルスでもレギュラーになっていたらどうだったのか。俺は本当に死に物狂いでレギュラーを獲ろうとしていたのか。なんで長太郎は留学なんかしたのか。長太郎は俺を、俺は長太郎を好きだったのか。
うまくいかない。長太郎の言ったそのセリフが全てを言い表わしていると思った。
全てがうまくいっているように思えたあの夏が奇跡だっただけなのかも知れない。




「お久しぶりです。今度の土曜日もしお時間あったら、会いたいです」

そのメールを受信したのは岳人と呑んだ三日後で、俺は今度こそ驚いた。四年間ほぼ音沙汰のなかった相手から、そいつの話をした直後に連絡があるというのは、良く言えば運命的、悪く言えば気味が悪いと思えた。
別に返事をしなくてもよかった。その日は用があると言ってもよかった。でもそうしなかった。
長太郎が留学から帰ってきたというのを人づてに聞いたのは一年くらい前で、つまり長太郎の留学していた三年間プラスこの一年間、ずっと俺はこういう日が来るのを恐れていたような、待ち侘びていたような気がする。




待ち合わせた飲み屋に現れた長太郎はあの頃よりさらにデカくなっている気がしたが、優しい顔立ちは大人びていて、人を安心させる力があると思った。おかげで俺は四年ぶりだと別段意識もせずに長太郎と向かい合うことができた。

そして開口一番、俺は聞いた。
「岳人になんか言われたのか?」
「えっ?」
長太郎は素直に驚いて答えた。

「岳人先輩ですか?いや、全然何も、話したりしてないです」

俺は岳人がこの間の話で思い出したように長太郎に根回しでもしたのかと思っていた。そう思いたかった。運命的なんてこの期に及んで思いたくはなかったからだ。

「なんでですか?」
「いや、この前たまたまあいつとお前の話してたからよ」

そうだったんですか、と言って笑う顔はあの頃のままだった。

「本当は、戻ってきてからすぐにでも連絡したかったんですけど、……どんどん時間が経っちゃって」
困ったように笑う顔もあの頃のまま。

「そんなもんだろ。しょうがねーよ」
俺が言ったその言葉は、自分へ向けて言っている言葉でもあった。しょうがない。

「メール、返さなくて悪かったな。向こうから送ってきてくれてたやつ」
「あ、いえ。宍戸さん、元々あんまりメール返してくれる人じゃなかったし」
「それもあるけどよ。なんて返したらいいのか分からなかった、お前が遠いところで頑張ってるっていうメールに」

笑っていた長太郎の顔がふっと固まった。言葉を探して目が泳いでいる。

「俺は多分、お前よりよっぽど子供だったんだよな」

ごめんな、と言って、俺はこの一言で今までの全てが伝わることを願った。俺の不甲斐なさもくだらなさも全部。
そしてそれは願い通りに伝わったようで、長太郎は慌てたように「俺のほうこそ、勝手になんか、距離置いたみたいになっちゃって」と言い、頭を下げた。
「すみませんでした」

「接し方が分からなくなっちゃって。中学の頃は、あんなに楽しく一緒にいられたのに」
グラスを両手で抱えて指を遊ばせながら長太郎が言う。

「そんなときにちょうど留学の話が来てて。……今思ったら、遠いところに行くことで、逃げようとしてたのかもしれないです」
情けないんですけど、と言って長太郎は頭を掻いた。
「向こうでも、あの頃のことばっかり思い出して。時間としてはたった一瞬みたいなものなのに」

長太郎の言うことはよく理解できたし、つまり俺たちはほぼ同じ状態だったってことだろう。
そうやってできた距離と過ぎていった時間とを言葉で埋めることはできても、それにしてもこのよそよそしさはどうだ。あの頃の俺がこの光景を見たら、絶句して大人になることをやめたくなるかも知れない。


「そういう話がしたかったのか?」
俺が言うと、長太郎は顔を上げて俺を見た。

「昔話とか言い訳がしたいから俺に会いたかったのかよ」

ちょっといい個室居酒屋なんかにしたせいで、俺たちの周りは静まり返っている。長太郎が息をのむ音さえ聞こえた。岳人と呑むときのような安いチェーンのうるさい店にしておけばよかった、と俺は後悔した。


「宍戸さんはずるいですよ」
長い沈黙のあとで長太郎が言った。声が震えている。

「いっつも、俺にばっかり、決断させたり言わせたりしようとする」
その通りだなと俺は思った。

それからまたしばらくの沈黙のあとで、聞きとれないくらいの小さい声で長太郎が「好きです」と言った。

「宍戸さんのことが、ずっと好きで、今も好きです」


「俺、この間やっと就職決まったんだよ」

出し抜けに俺が言うと、長太郎はズズッと鼻をすすりながら「……おめでとうございます」と呟いた。その律義さに俺は一瞬吹き出しそうになったが、こらえて続けた。
「一流企業とかじゃねーけど、強い実業団のあるところ」

長太郎が赤い目で俺を見る。

「俺はずるいからな。諦めたふりして諦めきれなかった。テニスも、お前も」


今またこうして長太郎と会っていること、長太郎が俺をずっと好きだったということ、俺がそれを心のどこかで信じて疑っていなかったこと。そのほうがあの夏よりもよっぽど奇跡のように思えた。
またやり直せばいい。それでまた何かがおかしくなったとしたらまたやり直せばいい。何度でも。そんな諦めの悪いことを繰り返しながらこいつと生きて行くのも悪くないなと思った。